現代のビジネスは、短期合理性によって強く駆動されています。KPI、四半期決算、生産サイクル、出荷計画など、ほとんど例外なく「近代的な時間」のなかで人間中心に設計され、効率やスピードを重視することで多くの価値が生まれてきました。
しかし、最適化の名の下に地球環境や文化を含めた営みや信頼関係といった、長期的な価値が毀損されてきたことも明らかになっています。季節、風土、儀礼、発酵、関係の成熟といったものは、単純に目的から逆算した効率では捉えきれないものです。
一方で、長期価値を重視しようとすると経済合理性との両立が難しくなる。その結果、わたしたちはいまもなお、短期か長期かという二項対立のなかに留まっています。
この記事では、こうした対立をほどくための別の可能性を探っていきます。どちらかを選ぶのではなく、状況に応じて短期合理性と長期価値を自然に切り替えられる状態をデザインすること。もしその状態が実現できれば、持続可能性は高い倫理観に訴えるようなものや、あるいは我慢して続けるようなものではなくなっていくはずです。
Takramは2025年11月、Circular Design PraxisとRE:PUBLICが主催するCircular Design Week 2025にパートナーとして参画し、京都でのフィールドリサーチを通じて、この仮説を検証しに出かけました。
もう一方の世界を見るために
今回のフィールドワークでは、Circular Design Praxisが提案する「感応(attunement)メソッド」を用いました。これは、課題や仮説を先に設定して持ち込むのではなく、その場固有の時間や環境に身体を没入させることで、「近代的な時間」の流れでは見落としている、複雑な世界を観察する方法です。
そこで見えてきたのは、単なる伝統や長期的価値の礼賛ではなく、短期合理性と長期価値のあいだを行き来する、いくつかの具体的な実践でした。

京都から抽出した2つのデザイン仮説
京都で観察した実践を整理すると、2つのデザイン対象が浮かび上がってきました。いずれも、短期と長期、どちらか一方の極を選ぶものではなく、むしろ両極のあいだの往復を成立させるデザインです。
1. 「愛着的寿命」ー 関係を更新し続けるプロダクト・サービス
近代的なデザインでは、多くの場合、成果物が価値の中心に置かれてきました。完成された建物や製品、サービスが、成果として評価されます。しかし、京都で目にした実践では、成果物はむしろプロセスの起点として扱われていることが少なくありませんでした。

亀岡の砥石館で出合い直した「砥石」も、そのひとつ。庖丁は研ぎ直しながら長く使い続ける道具であり、切れ味が落ちれば、「研ぐ」という行為をユーザーに促します。
研ぐ場所に指先を置き、わずかに力を加え、刃を15度に保ちながら前後に動かす。砥石が擦れ合う感覚に集中するうちに、次第に摩擦がなくなって一体化していく。刃を介して身体と砥石が採れた二億五千万年前の大地とのつながりを想起させます。ここで提供されているのは単なる道具ではなく、道具と人と大地との関係を変化させる装置です。

竹中工務店の山崎篤史さんらが手がけた大阪・関西万博の「森になる建築」には、3Dプリントされた生分解性樹脂と生物多様性の観点から選ばれた種子を漉き込んだ和紙が用いられました。
会期中、訪れる人によって和紙が貼られ、手入れがされていきます。やがて会期や役割を終えると、兵庫県の清和台の森へと帰り、ゆっくりと朽ちることのできる「建築の死」があらかじめ計画されていました。
建築や維持管理のプロセスに「人の手」が介在するように設計することで、建物は地域の一部となり、次世代へ継承されるべき「愛着」が醸成されていきます。

このように、成果物がプロセスを誘発し、プロセスが成果物や環境との関係性を更新する。庖丁も建築も、物質的な寿命ではなく、愛着的寿命のもとで生きながらえることができます。ここでデザインされていたのは完成されたモノではなく、時間のなかで変化し続ける関係そのものでした。
2. 「場に保存された知識」ー 共事者を増やす組織デザイン・ガバナンス
近代的な組織は、多くの場合、統制(カバナンス)によって成立しています。役割と責任が定義され、意思決定は階層的に行われる。統制は組織を安定させますが、同時に人と人、人と環境との関係を断絶させる側面ももっています。
一方で、長期的な関わりだけでは、参加のハードルが高くなりすぎる。そのあいだを往復できるとき、人は無理なく関わり続けることができる。鍵を握るのは、知識やスキルのあり方です。取材した保津川遊船企業組合の豊田知八さんのお話には、そのことがよく表れていました。

保津川下りの運航には組織としてのルールや役割も存在していますが、船頭たちは天候ひとつで変化する川床の機微を見抜き、必要な道具があれば自らつくります。また、重機が入れない保津川では、大雨など災害が起きれば人の手で岩や石を動かすことで、流速を適度に整えます。こうした営みを支えているのは、単なる個人の技能ではありません。
それは、亀岡の地形や水の流れ、そして歴代の船頭たちの実践の中に蓄積されてきた「場に保存された知識」です。マニュアルとして形式化されたものでもなく、個人に属するものでもない。人と環境との関係のなかに知識が保持され、身体を通じて引き出される知です。このとき統制と協働は対立せず、むしろ統制は現場の柔軟な判断を支える条件として機能します。

この視点は、「責任」の概念も再考させます。鹿児島大学の難波美芸さんが研究する、ラオスをはじめとした世界各地で見られる「流れ橋」は、増水すれば流失することを前提に設計され、流されるたびに近隣住民によって架け直されます。リスクやメンテナンスを専門家に「外部化」せず、使い手が自らが関わり続けます。ここでの責任の意味とは、他者から課される義務ではなく、変化に対して自ら反応し行動する「応答可能性」へと変化します。
ここから導かれるのが、「共事者」という関わり方です。課題を一部の当事者や専門家に委ねるのではなく、外部の人々や未来の世代も含めて「ことを共にする者」として関わる。強い責任主体として問題を引き受ける存在ではなく、個人的な関心や違和感を起点に、ゆるやかに、しかし継続的に関わり続ける存在です。

知が環境と身体と関係のなかに分散して保存されているからこそ、人は完全な専門性や責任をもたずとも、その一部に参与することができます。そうしたシステムから外部性を排した営みのなかにこそ、制度や個人の自発性に過度に依存しない本質的な持続可能な関わりが見出せるのではないでしょうか。
「未完成」をデザインする
ここまで見てきた2つの実践は、対象こそ異なれど共通する構造をもっています。それは、成果物を終点ではなく、関係を更新し続ける起点として扱うこと。そして、知識や責任を個人や組織の内部に閉じず、環境や関係のなかに分散させること。この2つが重なるとき、プロダクトや組織は固定されたものではなく、関係のなかで変化し続ける“場”として立ち現れます。
そこでは短期合理性と長期価値は対立せず、必要なときには効率的に機能し、別の瞬間には時間をかけて関係が育まれます。その切り替えは、理念や意志によってではなく、状況のなかで自然に起こるようになります。
この状態を可能にしているのが、あえて“完成させない”設計でした。
完成されたシステムは効率的であるものの、変化への応答を難しくします。一方で、未完成のまま開かれたシステムは、手入れや関与の余地を残し続けます。人はそこに関わり、更新し、離れ、また戻ってくることができる。つまり、未完成であることは不完全さではなく、関わりが生まれ続けるための条件でした。
京都で見た実践は、伝統を守っているのではなく、「よく練られた未完成」の状態を保ち続けること、意図的に破壊と創造の循環を織り込み続けることで、結果的に長い時間を生き延びてきた営みだと言えるのかもしれません。
短期か長期か。効率か持続可能性か。どちらかを選ぶのではなく、往復し続けられる状態を設計すること。そのときはじめて、持続可能性は特別な努力ではなく、日常の営みのなかに自然に立ち現れるものになるのではないでしょうか。
Next Issue
03では、2025年11月にNTT都市開発 デザイン戦略室とTakramとで実施したポップアップスペース〈Authors Harajuku〉の取り組みについて掘り下げていきます。直進する経済と迂回する経済。バザールとクラブ。両極にある概念を往還した試みを振り返りながら、Circular Designの可能性について探索します。
(03 : NTT都市開発 デザイン戦略室との新しいまちづくり編につづく)





