脳の補完機能を生かす演出
── いのち動的平衡館の「クラスラ」を製作するにあたって、最初のお題は何だったのでしょうか?
中森大樹(以下、中森) 最初に出されたお題は、「動的平衡」というテーマを空間として体感できるインスタレーションにすることでした。そこで、空間に粒子のような光が静かに浮遊しているビジュアルイメージをTakramから提案したんです。それをどう実際のインスタレーションにするかを考えることが、わたしたち3人の役目でした。
成田達哉(以下、成田) 実は今回、技術面では万博という場の特性が大きなヒントになったんです。万博は「未来の技術のショーケース」ともいえるイベントですよね。しかし、そこで最先端の高精細映像を見せるのではなく、むしろ「低解像度」で人間の想像力を喚起する表現をめざすという方向性を考えました。

── あえて低解像度なLEDを選択した理由は?
成田 見る人の脳の補完機能を活かし、光の揺らぎから物語を読み取ってもらう仕掛けにできないかと思ったからです。万博という場の性質に対する、ある種のアンチテーゼと言えるかもしれません。ただ、それは結果的にプロデューサーである福岡先生のメッセージ ── つまり、生命とは常に壊れながら創られている流動的な存在である、という「動的平衡」の考え方にもあっているように思います。
── 立体LEDを使ったプロジェクトは世の中にいろいろありますが、「クラスラ」は珍しく装置自体が有機的な形状をしていますよね。
中森 LEDの粒子を等間隔に並べるようなよくあるグリッドでは、生命の有機的な流れを表現できないからです。血管や神経、川の流れ、枝分かれする木の構造といった自然の中の“動的平衡”は、決して直線的でも、規則的でもありません。最初はミノムシのような四角錐を積み上げる構造も考えたのですが、チームで話すうちにうねるような構造に落ち着きました。

基板も色も制御も特別設計
── それを空間にどう展開していったのでしょう?
中森 物理的な接続や配線の課題があって、そこに成田さんがエンジニアリング的な視点で加わってくれました。最終的に行き着いたのが、LEDの基板を1本ずつくねくねと折り曲げながら連続させる方法です。
成田 最初は基板同士をケーブルで接続する案も出ましたが、構成が煩雑になり、ノイズも増える。そこで1本のラインで完結する構造にしようと切り替えました。LED基板を最小限のジョイントで折り返し、全体として林のような立体をつくったんです。
── そのために、今回のプロジェクトでは基板から設計したんですよね。
成田 はい。例えば既製品のテープLEDを使うと、コンデンサーや抵抗、制御用のICチップなどがむき出しのまま配置されることになる。そのせいで、光の点ではなくLED基板全体が反射してしまい、縦ラインや部品のシルエットが浮き出てしまうんです。これでは林の中に光の粒子が漂っているような空間は実現できません。
中森 しかも、今回は光そのものに生命っぽさ、例えば蛍のような、揺らぎや余韻のある明滅を感じさせたかった。だからこそ、光以外の情報がなるべく見えないことが重要でした。既製品のLEDでは限界があると判断し、成田さんにお願いして、専用基板をゼロから設計してもらいました。
── 光の「色」も特別に設計したとか。
成田 そうですね。一般的なアドレッサブルLEDはRGB(赤・緑・青)を混ぜて白をつくります。しかし、それだと光が反射したときに紫がかって見えてしまったり、環境光によって不自然な色になったりするんです。そこで今回は、あらかじめ特定の色温度にチューニングされたホワイトLEDチップだけを選定し、ノイズの少ない白色を実装しました。これによって、粒子がより純粋な光として空間に浮かぶようになりました。

── 制御の仕組みも特別なものだったのでしょうか?
成田 既製品のテープLEDは、1つのLED部品に対してR・G・Bの三色のLEDとICチップが入っています。今回のような白一色だけの表現では3チャンネルを同時に制御する必要があり、通信・演算コストが高くなってしまいます。僕たちが今回使った独自設計の基板では、制御系統の数を最小限に抑えていて、電力的にもコスト的にも1/3程度に圧縮できていると思います。万博は一館あたりで使える電力量が決まっているので、省エネという意味でも貢献できたかなと思っています。
「人間の知覚とどう付き合うか」
── 実際に空間として組み上げてみて、想定外のことはありましたか?
小林 諒(以下、小林) とにかく「見えないな」っていうのが率直な感想でした。物流倉庫を1カ月借りて本番と同じスケールでテストしていたのですが、シミュレーション上では見えてたものが、実際に空間に組んで光らせてみると全然見えなくて。
成田 上がってきた映像だけをPC上で見ると、「あ、いい感じに見えているな」って思うんです。でも、現地で肉眼で見ると、スケールが違うので脳が処理できてないんですよね。何が起きてるのか分からなくなってしまう。
── というと?
小林 例えば、動物が一瞬前を通り過ぎるような動きって、見てほしい意図があるのに、ほとんど認識されていない。見た目に特徴が分かりづらい動物は、そもそも何か分からないっていう問題もありました。

成田 最初にハシビロコウを入れていたのですが全然わからなくて(苦笑)。誰が見ても「これ、何?」ってなる。シルエットに馴染みがないから脳が補完してくれないんですよね。
小林 だから途中から「見たことのある動物」「脳内で像を結びやすいもの」に絞り、演出も複雑な動きは避けて、何度か前を横切るような繰り返しにしました。動物の選定をし直して、結構入れ替えたと思います。
──「どうすれば見えるか」「どう脳に補完させるか」の設計ですね。
小林 まさにそうです。情報を詰め込みすぎると、途端に見えなくなるんですよね。特に立体のLEDって、あれだけの密度で発光してるから、ちょっと凝った演出を入れるだけで、すぐに認知が飽和する。だから、最終的には「どう減らすか」がテーマになっていった気がします。
成田 表現を足すより、引いていくほうが大事でした。知覚されない表現は、存在しないのと同じなんですよね。そういう意味では、これは演出の仕事というより、「人間の知覚とどう付き合うか」という“設計”の話だったと思います。
テクノロジーを押し出さないために
── 演出と表現と技術的限界のせめぎあいのようなプロジェクトですが、社内でプロトタイピングする部分も多かったのですよね。
中森 構造と基板のすり合わせは、ほとんど立ち話レベルで繰り返していました。僕は構造側の発想をベースにモジュール案を考えていたんですけど、そこに成田さんがふらっとやってきて、「こんなLEDの並びもあり得るよ」とか「この基板のサイズなら納まりそう」とか、都度見せてくれて。それを受けて「じゃあここは保持方法を変えよう」とか、すぐに反映できたのが大きかったです。

成田 構造を変えるたびにケーブルやジョイントをどうするか、毎回相談していました。内部で即時的に判断できたから、例えば「出っ張りが目立つから避けたい」とか「この長さで収めたい」といったリクエストにもリアルタイムで対応できた。外部パートナーを挟むと、このやりとりはどうしても遅れてしまうんですよね。特に基板設計では、パーツの選定から安全性の担保まで含めて、社内で試しながら進められたのが大きかった。安全管理も責任範囲が明確なので、リスクを最小限にしながらスピーディーに試せる。おかげで、構造案と基板の制約がかみ合っていくプロセスを、その場で積み重ねることができたと思います。
── 特殊なインスタレーションですが、過去のプロジェクトでの経験が活かされた場面はありましたか?
成田 僕自身、以前のプロジェクトでも基板を設計して制御するような仕事はやっていたので、「どう試して、どこまでだったらいけるか」という勘はありました。今回使っているアドレッサブルLEDも、信号を1つずつ送るのではなく、順番に次へと流していけるプロトコルで制御するタイプなんですけど、そこは過去の経験がそのまま活きました。
小林 僕は、こういうボリュメトリックLEDの空間演出は初めてでした。以前センサーとスクリーンの組み合わせた展示を手がけたこともありますが、ここまで解像度が「低く見える」LEDを扱うのは初めてで、正直、相当大変でした。もうトラウマレベルです(笑)。

中森 空間構成や照明の設計は、これまでも自分のプロジェクトで手がけていた分野だったので、そこはかなり意識しました。
── 2020年にダイキン工業と組んでミラノサローネで展示する予定だったプロジェクト(※コロナ禍で中止)では、空中に浮かんだバルーンを風の力で静止させたり、紫外線LEDを当てることでインクが発光し、メッセージが浮かび上がる仕掛けを取り入れていましたね。
中森 はい。「クラスラ」もそうなのですが、照明や空間の“しつらえ”にどれだけ気を配るかで、テクノロジーを押し出すか、それとも“環境”として体験させるかが変わってくるんです。万博でも後者をめざしたかったので、LEDそのものが前に出すぎないように、できるかぎり静かに光る環境をつくるよう意識していました。
成田 これは中森さんの力が大きいと思っています。構造的にはわりとシビアで情報量も多い設計を、“林の中を歩く”ような体験に落とし込んでくれました。僕らが制御やノイズの話をしている横で、空間としての見え方や印象を丁寧に仕上げてくれていたおかげで、最終的に「技術っぽさ」を感じさせない空気ができたんだと思います。LEDを林のように配置したことで、光の粒子が“生えている”ように見えたという声がありました。Xのコメントで「これは“考える葦”をモチーフにしているのでは?」って考察していた人もいたくらいです。
小林 そこまで読み取られるとは思っていなかったですけど(笑)、でも、そういう誤読も成立してしまうような余白が、この作品にはあったのかもしれないですね。
